円空仏と仏師

円空仏と仏師

東京国立博物館140周年 特別展

展示されている円空仏(1)

展示されている円空仏(2)

円空と長間薬師寺

円空と高賀神社

円空仏と仏師

円空と千光寺

円空と栃尾観音堂

仏師とは

仏師の歴史(1)

仏師の歴史(2)

円空仏と仏師

円空と高賀神社

高賀神社がある洞戸村が関市に合併されたのは、例の平成の大合併の時。

円空と高賀神社の関係

高賀神社がある洞戸村が関市に合併されたのは、例の平成の大合併の時。以前は武儀郡洞戸村奥洞戸と言う地名でした。円空の初期の仏像が郡上市美並町に残されていますが、その像は高賀神社の神像とよく似ていて、円空はかなり早い時期に高賀神社を訪れているのではと言われています。つまり円空仏が作り出された最初の土壌に、高賀山信仰があったことは間違いないと言えます。円空はまた、最晩年をこの地で過ごしたと伝えられ、円空仏の最後の作と言われている歓喜天像ほか、多数の仏像が高賀神社に奉納されています。さらに晩年、歓喜天を彫って入定を決意した場所も高賀であり、自分の意思を貫いた証として、出発点である高賀神社に錫杖と硯を納めたと考えられ、円空にとって高賀は、特別な地であったに違いありません。

「窟上人」円空

江戸時代、故郷の美濃(岐阜県南部)を中心に活躍した円空。円空は臨済宗の僧で、美濃国竹ヶ鼻(現在の岐阜県羽島市)の生まれ、23歳の時、富士山、立山にこもり、岩屋で仏像を彫ることから、「窟上人」ともいわれていました。職業的な仏師としてではなく、修験者として修行を行いながら仏像を彫りました。美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、法隆寺(奈良)、園城寺(滋賀)、輪王寺(栃木)などで受法して法脈を継ぎました。一方、修験者として大峰山(奈良)、伊吹山(滋賀)、二荒山(栃木)など霊山に登り、その途次立ち寄った集落で仏像を造りました。円空は生涯に12万体の仏像を造るという願を立てたと伝えられますが、今までに5000体以上が知られています。元禄8年(1695)7月、美濃国関の弥勒寺で没しました。

洞戸高賀神社と円空

洞戸高賀神社が円空との関係で注目をされるのは、いくつかの理由があります。

などがあり、円空を訪ねる旅をしている人としては、ぜひとも訪ねてみた場所です。

工芸の最高峰

円空記念館

高賀渓谷のせせらぎに誘われるかのように村を訪れた円空。古くから神々の里として栄えてきた洞戸。全国から山伏や信者が参拝に訪れた高賀神社は円空ゆかりの地としても有名です。円空はこの地で入定の決意を固め、最後の作品といわれる歓喜天を彫ったといわれています。「円空記念館」(平成7年7月7日開館)は、円空上人が晩年を過ごした弥勒寺と入定した長良川河畔を連動したフィールドミュージアムの中心施設です。円空記念館には、最高傑作といわれる一木作り三像をはじめ、30体近くの円空仏が展示してあります訪れた人を優しさと慈愛に満ちた円空ワールドにいざなってくれます。

概要

高賀の郷が全国からの修験者や信者を魅了した様に、円空も入定の決意を固めるほどこの地に魅せら、価値のある多くの作品をここに残しました。市内で見つかった円空仏を多数展示しています。

円空仏

円空記念館には、30体近くの円空仏が展示してあります。

円空の足跡

錫杖 硯箱 硯 錫杖・硯・硯箱
円空が使ったとされる、硯と硯箱、錫杖が洞戸円空記念館に展示してあります。硯の裏側には、峯児と彫られています。 錫杖には、円空の持ち物らしく柄の部分には円空独特の彫りものがあり大変貴重なものです。
神符 神符
「神符」というのは、今で言う「お札様」のようなもので、そのもの自体を神仏としてお祀りし、家内安全や厄除け祈願をしたものであると考えられています。「神符」の内容は、「南無大菩薩」14枚、「南無大明神7枚、「八百万大明神」9枚です。 高賀神社には円空自筆の神符が30枚残っています。現存している円空自筆の墨書の数の多さには驚かされます。
円空と雨乞い
円空が自ら書いて奉納した懸け仏が、高賀神社には残っていて、その懸け仏の裏側には、「雨乞いをしたところ、天上に、にわかに雲が出てきて大雨にめぐまれた」と記されています。元禄五(1692)年四月十一日、円空は峯稚児神社で雨乞いの祈祷をしています。村人が日照りに苦しんでいるのを見かねて、雨乞いの神事をしたのでしょう。

高賀神社の円空仏

高賀神社は円空が晩年すごした地であることから円空仏を多数所蔵していて、高賀神社伝来円空作仏像群として岐阜県指定重要文化財となっています。大半は1995年(平成7年)に開館した洞戸円空記念館に保管されています。

一木造り三像【十一面観音・善女竜王・善財童子】
一本の木を縦に三つに割って材とした一セットの円空仏で、それぞれの顔を中にして向き合うように置くと一本の木になります。円空は、母親を洪水で亡くし悲しみから自分自身を善財童子に見立て、善女竜王を母に見立てて意図的に彫ったように思われます。三位の像を内側にぴったり合わせた形は、十一面観音に自分と母が抱かれる形となり現世で果たし得なかった願いがこの像に込められています。
虚空蔵菩薩像 虚空蔵菩薩 虚空蔵菩薩
高賀山信仰が一番栄えた時代、それが鎌倉時代から室町時代にかけてで、そのご本尊となっていたのが虚空蔵菩薩でした。円空がこの高賀の地で仏像を彫ったのは江戸時代前期(17世紀)であり、高賀山信仰の華やかな時期が終わりを告げていて、高賀の神々の地は静かな山里であったと思われます。そんな時期に円空が、1メートルを超える大きな虚空蔵菩薩像を彫り、高賀神社へ奉納したことは、この地が円空にとって特別な所であり、造顕意欲をかきたてる、何かエネルギーを感じることのできる土地であったと言えます。
歓喜天 歓喜天像
円空が高賀神社に残した仏像で、ここにしかない仏像、それが「歓喜天」です。元禄五年、造顕活動を止めて三年間「千日行」を高賀で行った円空は、関市池尻弥勒寺で即身仏になるため入定しました。「歓喜天」はもともと男女の喜びを(動物の)象の姿で表したものですが、この像の台座には「釜且 入定也」と彫り込まれています。このことから、この歓喜天像は円空が元禄九(1695)年に入定することを決意したことを暗示した像として貴重なものだと言われています。「釜且 入定也」の「釜」は数量の単位、六斗四升を意味すると解され、「且」はまさに、ここに、かりそめ等と解されます。元禄五(1692)年高賀で死を予覚した円空が三年後の64才で入定することを決意して予言し、歓喜天の台座に「大地にかりそめの入定也」と刻書したものと考えられます。
不動明王像 不動明王像(洞戸で最初の円空仏)
円空が出家してから、最初に高賀を訪れたのは寛文十一(1671)年です。奈良の法隆寺で修行をした後、高賀へ向かう途中、洞戸菅谷にあった山伏宝寿院で、不動明王を彫り上げています。 この像は、洞戸菅谷地区の個人の所有であったものを、現在は円空記念館に安置して、一般参観できるようになっています。

高賀神社の和歌集

円空が高賀神社の「大般若経」を修復する際、巻子本形式から折本形式に改めた時、表紙の裏等に自作の和歌を書いた紙を貼りこんでいて、その和歌の数はなんと千五百首にものぼります。仏像作りの目標が十二万体と多いことが知られていますが、和歌の数も高賀だけでこれだけあるとは驚きです。ちなみに、円空の「和歌集」は、高賀神社の他に飛騨の千光寺と三重県の志摩地方にも残されており、和歌の数は何千にも及びます。円空の歌集には、信仰が人を守り、導いて行くとか、後代までも受け継がれていくといった考えの歌が盛り込まれていて、「大般若経」に自らの歌を貼りこんで行くことで、自分の宗教感を「大般若経」とともに後世に残そうとしたものと思われます。

高賀神社の交通機関

うまい棒で円空さん?

仏像彫刻のすゝめ
素敵な笑顔を生涯にわたって保てるお手伝いを「川嶋歯科医院」「川嶋歯科医院」では行なっています。綿密なヒアリングや検査も行います。
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