円空仏と仏師

円空仏と仏師

東京国立博物館140周年 特別展

展示されている円空仏(1)

展示されている円空仏(2)

円空と長間薬師寺

円空と高賀神社

円空仏と仏師

円空と千光寺

円空と栃尾観音堂

仏師とは

仏師の歴史(1)

仏師の歴史(2)

円空仏と仏師

円空と長間薬師寺

薬師寺如来は、円空上人が在職中に年老いた乞食の女性が!?

円空と長間薬師寺の関係

円空誕生の地とされる羽島市上中町の長間薬師寺。この寺には本尊の「薬師如来像」をはじめ、9体も円空仏(県重要文化財)が残されています。

長間薬師寺の薬師寺如来

長間薬師寺の本堂にある薬師寺如来は、薬師如来は万病をなおし、人の寿命を延ばすことを本願とする仏で、その信仰は広く民間に生き続けてきました。

長間薬師寺の歴史

薬師寺如来は、円空上人が在職中に年老いた乞食の女性がいるのをあわれに思って、彫刻して与えたものだそう。その乞食は、毎日その仏像を背負って喜拾にまわっていましたが、急にその姿が見えなくなったそうです。すると川端に毎夜光りがでるようになり、そのため光付近を調べてみたら、薬師像を抱かえて死んでいる乞食の女性を発見。光は薬師像から発していたのです。村人たちは驚いて、その付近を切り拓いてお堂を建てその薬師像を祀ったのが薬師寺の始まりと言われています。

長間薬師寺の文化財

長間薬師寺の文化財である円空仏像群(岐阜県指定重要文化財、羽島市指定有形文化財(彫刻))は、7体の円空仏が1956(昭和31)年5月に市の文化財に指定されて、同年9月に県の重要文化財に指定されました。その後、2体の円空仏が発見されて、共に安置されています。

岐阜と円空

円空仏は現在までに全国で約5,000余が見つかっていて、岐阜県内では1,650余、祀られている場所は800ヵ所に及びます。円空生誕の地と伝えられる羽島市上中町上にある「中観音堂」や「長間薬師寺」、円空がたびたび訪れ、入定の決意を定めたとされる関市洞戸にある「円空記念館」、円空入定の地のそばに建つ「関市円空館」、郡上市美並町の星宮神社の境内にある「円空ふるさと館」などには円空の彫った仏像や神像、遺品や和歌集などが展示され、時を超えて円空の魂に触れることができます。

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遊行僧円空と円空仏について

円空は遊行僧として、出身地の美濃国(現在の岐阜県)を拠点に近畿、関東、東北、北海道まで行脚を重ね、その道筋で、木ぎれを利用して彫った掌に載るほどの小さな像から、見上げるような像まで、膨大な数の仏の像を刻んでは民衆に与え続けました。

心惹かれる円空仏

円空仏を前にしたとき、私たちはその人間臭さと内側からにじみ出るような微笑に心引かれます。ありがたいと伏し拝むより、思わず手に取ってなでさすったり、頬ずりしたくなるような仏像なのです。そこには諸国を遍歴しながら、重い年貢と貧困にあえぐ民の心に寄り添って生きた円空の力強いメッセージが込められているのです。

円空仏の出生

円空の出生については諸説ありますが、寛永9(1632)年に岐阜県羽島市上中町で生まれたとする説が有力です。7歳のころ長良川の氾濫で母を亡くし、それがきっかけで仏門に入ったと云われています。鉈と鑿を手に日本各地を行脚しながら生涯で12万体の仏像を彫ったとされ、元禄8(1695)年7月15日、関市池尻にある弥勒寺近くの長良河畔で入定。時に64歳でした。

円空仏を知る(1)

円空仏とは円空の彫った鉈彫りの仏像のことです。仏像を彫り始めた30代の前半から、生涯に12万体を作ると発願した、という伝記も残っています。明治の廃仏毀釈を逃れ、現存するものだけでも約5000点に上ることから、大小併せて12万体という数もうなずけます。円空は寛永9年(1632)美濃の国に生まれた修験僧で、窟の中で修行し、仏像を彫ったので窟聖と呼ばれました。世の人を救うため、北海道・東北・東海・関西・関東などを尋ね歩き一生に十二万体もの神仏像を彫り、寺社へ奉納したり、個人の求めにも応じました。

円空仏を知る(2)

造形を簡略化することで、円空は大量の仏像を短時間で作ることができるようになりました。貧困にあえぎ、食うや食わずで暮らさなければならない境遇の人々でも仏像を拝めるように、仏の姿を木端に刻むこともあったそうです。円空仏が神社仏閣だけでなく、個人宅でも大切に祀られているゆえんです。

円空が初めて彫像した仏像

円空が初めて彫像したのは寛文3(1663)年。場所は現在の郡上市美並町です。白山を開山した泰澄(たいちょう)の弟を祖先とする西神頭家(にしごとうけ)の庇護を受け、仏像や神像の制作に励んだといわれています。

円空当初の作品

神明神社にある天照皇大神像(あまてらすすめおおかみぞう)に代表される当時の作品群は写実的で、円空彫の特徴である大胆さや口元の微笑みは見られません。しかし、修行の旅を続けるうち技は冴えわたり、自分の仏教観を反映した独自の作風を生み出していきます。

円空と造仏聖

白隠に先立つこと半世紀、円空は江戸時代の初期に活動した「造仏聖」として知られています。造仏聖とは、仏像制作を専門とするプロの仏師ではなく、自らの信仰の表現として仏の像を刻んだ僧侶。古代や中世にも少なくなかったのですが、その活躍ぶりがもっとも目立つのは近世のことです。

現存する円空仏

仏像は本来「儀軌(ぎき)」という決まりにのっとって彫らなければならないのですが、現存する円空仏の多くは必ずしもそれにとらわれてはいません。衣や瓔珞(ようらく)といった装飾を省き、時には手足さえもそぎ落としてしまう大胆で簡略化されたフォルムは、粗削りですがきわめて斬新で現代的です。時には木目や節目、割れ目さえも、造詣の一部に取り込んでしまうような妙味を持ちます。鉈を使って一気に彫りあげたダイナミックな仏像からは、円空の息づかいが聞こえてきそうです。

円空の旅

円空の旅は東海地方を中心に東北、北海道にまで及んでいます。1ヶ所にとどまることなく、諸国を渡り歩きながら仏像を彫ることは彼にとって大切な“行”であり、名もなき貧しい民に明日を生きる希望を運ぶ旅でもありました。円空は若いころから白山修験道や真言密教などを信仰し、人里離れた山奥の洞穴や苔むした巨岩の上を修行の場としました。「山川草木悉有仏性(さんせんそうもく、ことごとくぶっしょうあり)」(自然界のすべてには仏性が宿る)山野での荒行によって彼の感覚は研ぎ澄まされ、自然の中に仏の魂を見出すようになったのでしょう。それが他の仏師とは全く異なる、野性味にあふれ慈愛に満ちた作風を生み出す精神的な原動力になったと考えられます。

うまい棒で円空さん?

仏像彫刻のすゝめ