円空仏と仏師

円空仏と仏師

東京国立博物館140周年 特別展

展示されている円空仏(1)

展示されている円空仏(2)

円空と長間薬師寺

円空と高賀神社

円空仏と仏師

円空と千光寺

円空と栃尾観音堂

仏師とは

仏師の歴史(1)

仏師の歴史(2)

円空仏と仏師

仏師の歴史(2)

仏師の歴史とは、その時代の歴史の表舞台に深く関わっています。

仏師の歴史について

仏師の歴史とは、その時代の歴史の表舞台に深く関わっています。貴族のように大きな権力を持つものや、かわって没落してしまうもの、これは貴族の権力争いとなんら変わりがありません。この時代、特に摂関・院政期に限って言えば、仏師とはほとんど有力貴族に雇われているような状況で、造仏活動に従事していたため、個々の仏師の特徴、というものは現われづらくなってきてしまいました。また、そこに定朝様というあまりに偉大な様式が完成してしまったため、様式的な発展が一時的にストップしてしまったのです。そのくびきを脱し、自分達の様式を模索していたのが平安京に対抗意識を燃やしていた興福寺・南都仏師であり、そこから慶派が誕生するのは歴史的必然であったかもしれません。

仏師の歴史

歴史上の仏師をまとめてみました。

院助(~1108)
覚助の弟子と伝えられています。当時仏師界の中心にあった円勢とは活動期がほぼ同時期であるが、円勢ほど華やかな造仏活動は伝わらず、60歳ほどで没したそうです。聖護院の不動明王が覚助の作風に近いといわれていますが、この像が造立された際には既に覚助は没していたため、弟子である院助の作品の可能性が高いといえます。
院覚(~1141)
院助の子、あるいは弟子とされます。関白藤原忠実に関する造仏が多く、後半生は鳥羽天皇皇后の待賢門院関係の造仏に従事した。前半と、後半生の造仏活動には史料的に空白期間があり、藤原忠実が白河院の勘気に触れ失脚したことにより、連座して処罰されたとの説もあります。この時代の仏師とそのパトロンとの関係を示した好例であるとも言えよう。この時代の仏師としては珍しく、遺例が現存しています。京都花園の法金剛院阿弥陀如来像がそれで、もと同寺西御堂の本尊です。大治5(1130)年の作品で、像高224.0cmの周丈六像で木造漆箔。円満な面相に整った衣文線などに忠実な定朝様を伝えます。この像の造仏賞として院覚は法橋に叙せられました。
院朝
院助の子とされています。保延元(1139)年、法金剛院塔の造仏で院覚より法橋を譲られます。以降、最勝金剛院などの造仏を手がけていて、長承3(1134)年、定朝の傑作として名高かった西院邦恒堂の阿弥陀如来を精密に計測したのがこの院朝と院覚です。補せられた時期は不明ですが、法眼、のちに法印位までのぼりつめています。確実な現存例は存在していません。
院慶(~1179)
院覚の子。史料によっては院朝の子としている場合もあります。「玉葉」によれば治承元(1177)年に法眼に叙せられました。主に朝廷近辺の造仏に関与していたことが知られています。現存例は存在していません。
院尊(1120~1198)
院覚の子、あるいは弟子とされています。藤原末~鎌倉の造仏界の第一人者です。寿永2(1182)年の僧綱補任では仏師で唯一法印になっています。院尊の時期に院派が3つの仏師系統中最大勢力となったといっても過言ではないでしょう。また、東大寺大仏の光背を院実、覚朝らを率いて作っています。作例は確実なものは残っていませんが、京都長講堂の阿弥陀三尊像があるいは彼の作ではないかと考えられています。

円派と院派

仏師の円派と院派についてまとめました。

円派
円派は自らを「定朝の正統な後継者」と位置付けて、常に、定朝様の踏襲を続けていました。本来なら、正系ではない彼らが、定朝の完成させた様式を完璧に再現する事によって、自らの正統性を主張したかったのでしょう。その傾向は当初、平安貴族たちの好む様式であったため、好まれ、そして歓迎されました。しかし、逆にそれが災いし、いつまでたっても定朝様の殻を脱し得えませんでした。すでに、運慶が新様式を模索し始めていたころの明円の五大明王を見てもそれはひたすら貴族好みの仏像の姿で、円派独自の仏像は生まれていなかったのです。つまりは定朝様のみを追い求めた結果、円派の仏像は穏やかではあるものの、常に定朝様の影がつきまとってしまうことになってしまったのです。
院派
覚助の弟子、院助をもって院派の創始者とする院派。代々「院」の字を用いたため、院派と総称されます。院派は当初、円派におされていましたが、院覚、院朝といった優秀な仏師を輩出し、藤原時代最末期、院尊の頃にいたって最盛期を迎えるものの、慶派仏師の台頭によって、その時期は長く続きませんでした。

奈良仏師の作風と傾向

奈良仏師は、定朝以降、はやくに奈良に下ってしまい、興福寺関係の造仏に従事していたことは既に触れたが、中央から離れたことにより、独自の作風を追求せざるを得ず、円派、院派といった京仏師達とはかなり違った作風を示すことになります。さらに、既に都ではなくなっていた奈良では仏像の注文は少なくなっていたため、古仏の修理などが主な仕事となりました。しかし、この古仏の修理が奈良仏師たちに天平以来の仏像の本質を知らしめることになったのです。こうして独自の作風に天平以来の古来の様式を組み合わせた鎌倉新写実が奈良仏師一門であった慶派によって生み出されることになります。

工芸の最高峰

院派の作風と傾向

院派は定朝様を忠実に踏襲する、という点では円派と同じですが、微妙に柔軟性があったようです。過去の踏襲だけでなく、その時代に好まれるものを何とかして採りいれようとした形跡が見られます。しかし、結局は定朝様の軛からは脱しきれたとは言えませんでした。作品傾向では、全体的にお像はのびやかで、体躯は引き締まったものが多く見られます。

奈良仏師の説

覚助の子、頼助をもって創始者とする説、あるいは覚助も含める場合もあります。主に南都興福寺大仏師職に歴代が補任されていた為、奈良仏師と呼ばれます。後に一門から慶派の創始者たる康慶が出ますが、ここで扱う奈良仏師はそれ以前の概要です。

頼助(1054~1119)

覚助の子である頼助。頼助の造仏はどうやら中央の造仏界には受け入れられなかったようで、はやくから祖父定朝以来の関係であった南都興福寺に下り、興福寺専門の仏師として活動しています。頼助は同門の院助に遅れること20数年後の康和5(1103)年にようやく法橋に任じられていることから、出世は大きく遅れていたことが分かり、しかも法橋のまま、その一生を終えています。理由として興福寺にこの時期大規模な造仏が無かった為、修理に従事していた、ということと、頼助自身の技量がそれほどではなかった、というのが挙げられます。永久元(1113)年、頼助は興福寺の注文に応じて、天皇呪詛の為の不空羂索像を作ったとされ捕らえられます。これはどうやら濡れ衣であったらしいのですが、奈良仏師たちが中央の造仏界に対する不満を持っていることが知られています。このように定朝の孫でありながら、不遇の一生であったといえます。仏師の円派と院派、仏氏の歴史は深いものだと感じますね。

うまい棒で円空さん?

仏像彫刻のすゝめ