円空仏と仏師

円空仏と仏師

東京国立博物館140周年 特別展

展示されている円空仏(1)

展示されている円空仏(2)

円空と長間薬師寺

円空と高賀神社

円空仏と仏師

円空と千光寺

円空と栃尾観音堂

仏師とは

仏師の歴史(1)

仏師の歴史(2)

円空仏と仏師

仏師の歴史(1)

仏師とは、仏像を製作する職人です。単純に木から彫るのではありません。

仏師とは

仏師とは、仏像を製作する職人です。単純に木から彫るのではありません。木の中の仏性を形にしていくという作業が必要ですから、それなりの修行が必要です。複数の職人がいるようなところでは小仏師といわれる助手と、大仏師という主任がいるところもあります。ここではそんな歴史ある仏師についてお話します。

仏師の歴史

仏師の歴史についてまとめてみました。

平安初期の仏師について(1)

この時代、仏工の名前が見える史料は総じて比叡山関係のものが多くあります。最澄没後も叡山は拡張を続けていたので、仏像の需要が多かったのは当然ですが、比叡山の史料(「叡岳要記」「山門堂舎記」など)のみに多くの仏工名が記されていたのは非常に興味深いです。あるいは、比叡山では仏像を作る人間の立場が他よりも強かったのではないでしょうか。久野健氏の研究によれば、康尚は比叡山の出身の可能性が高いといわれています。この説が正しければ、康尚が仏師としての地位を確立するのもそれほど唐突ではなかったことになるでしょう。

平安初期の仏師について(2)

この頃の仏像の造像は特定なものを除いて僧侶が好みで仏工に依頼したものであり、それによって特殊な仏像(いわゆる「革新派」)も生まれてきました。そのため、施主が判明しても実際仏像を作った人物の名が知れることはほとんどありません。ただ、ごく少数の仏工名が今日判明しているので、下記に挙げてみます。

会里
東寺の僧です。延長7(929)年東寺別当となります。仏像制作者ではなく、制作指揮者という点では前時代の国中公麻呂と同じですが、より宗教的な意味合いを持って、後世の大仏師的な役割を果たしたとされます。記録上では東大寺講堂の千手観音、および両脇侍(虚空蔵・地蔵)、を再興し、醍醐寺上醍醐の薬師如来(現存)を造立、東寺食堂の千手観音(現存・後補多)を延喜7(908)年ごろ作ったらしいです。
感世
丹波国菩提寺の観音像を仏師感世が造ったことが「扶桑略記」にみられます。
明定
天延3(975)年、比叡山横川の不動明王、飯室上堂の不動明王を作りました。(「叡岳要記」)

工芸の最高峰

仏師【定朝】

一般的に、定朝(~1057)とは「定朝様」を完成した仏師としてその名を知られています。定朝は康尚の子、あるいは弟子とされます。その名が初めて史料に現われるのは康尚が担当していた無量寿院(のちの法成寺)の九体阿弥陀像造立の際で、「中外抄」には「康尚が弟子に命じて仏像の手直しをさせたのですが、そばにいた道長がそれを見ていて『あれは何者だ』と尋ねたところ、『康尚の弟子定朝でございます』という答えが返ってきました。これが後に天下に名を知らしめる定朝である。」と記されていて、これがいわば定朝のデビューです。この造仏賞を定朝のみが受けていることから、無量寿院の完成を見ずに父康尚は亡くなっていたようです。定朝は法成寺の金堂・五大堂の諸仏造立の功績により法橋に昇進しましたが、法印、法眼、法橋の僧綱職に仏師が任じられるのは前代未聞のことで、父康尚から受け継がれた仏師の地位、というものが徐々に上昇していき始めました。しかし、なぜ仏師に与えられる地位が普通の役人の官職ではなく僧侶の位たる僧綱位であったのでしょうか?

定朝とは

定朝は寄木造の大成者として後世に名を残しています。いうまでもなく仏像の体の部分部分をそれぞれパーツ別に作り、後に組み合わせ、完成させる技法です。そのため、定朝一人ではまかないきれなくなったため、定朝は後の時代でいう仏所のようなものを構えていたことも確認されています。もともとこのような仏所は康尚の時代にもあったとされていますが、定朝のそれは前時代とは比較にならないほど大規模になっていました。

定朝について

平安初期、平安京遷都によって造東大寺司が廃止されるなど官営造仏所の廃止によって奈良時代の造仏職人たちは貴族お抱えの造仏職人となり、あるいは野に下るなど、それぞれの道をたどりました。しかし、仏像そのものの注文が無くなったわけでなく、平安時代初期に入ってきた密教のため、密教系の仏像の需要が増えるなど、むしろ増加したそうです。そのため、造仏職人たちは密教の儀軌に通じている必要が生じてきたのです。定朝以降の仏師が「法印」「法眼」などという僧綱位が与えられたのはこのあたりの理由によるもので、もっとも、定朝自身は清水寺で出家得度したという史料もあり、定朝自身は僧であった可能性も否定できません。

興福寺での活動

南都興福寺が北円堂を残し焼亡したのは永承元(1046)年のことです。翌年には再興に着手されましたが、この再興の造仏を担当したのが定朝であることが知られています。台座、光背、持物などの修理に定朝は定朝工房の小仏師たちを率い参加していて、この功により、法眼に叙せられていますが、興福寺の復興は仏像の補修が主な仕事で、新たに仏像を造立するようなことはなかったらしいです。

定朝の入滅

万寿3(1026)年、定朝一門は中宮の安産のために27体の等身仏像の制作指揮をしましたが、その際、総大仏師定朝の下に大仏師20人、小仏師105人が従っていました。父康尚に劣らぬ数の驚異的な数の造仏に関与し、仏師の地位を大きく上昇させ、「定朝様」を完成させた定朝は天喜5(1057)年8月1日入滅(「初例抄」)とあります。最後の作品である西院邦恒堂の造仏以降それほど時を経ておらず、それ以降の史料中に定朝の事蹟は見当たらないことから、この年に亡くなったものとして正しいものといえるでしょう。法成寺は定朝の没した翌年、炎上し、この仏像群の多くも失われ、現存例は全くありません。

定朝の造仏

定朝の遺品は唯一平等院鳳凰堂阿弥陀如来を残すのみです。定朝が関わったとされる重要なものは、ときの摂政藤原道長の発願により造立された法成寺関連の造仏です。定朝はこの造像によって法橋に叙せられましたが、このときの造仏は時の権力者藤原道長の権力を反映した華麗なものとなったようです。すなわち金堂内中央には三丈二尺の大日如来を中心に二丈の釈迦、薬師、文殊、弥勒を配し、その両脇に九尺の梵釈二天、四方には同じく九尺の四天王がおかれるという、日本最高の権力者となった道長の面目躍如ともいえるような仏像群が金堂内を埋め尽くしました。また、薬師堂には七仏薬師像、脇侍二菩薩、六観音(全て丈六像)。五大堂には二丈の不動明王、丈六の四忿怒像が配され、全て法橋定朝の作であったと記録されています。

定朝の晩年の仕事

定朝の晩年の仕事として、そして現存唯一の例として残る平等院鳳凰堂阿弥陀如来。後に院覚、院朝が造仏の参考とする為に、定朝様の仏像を丸一日かけて数十箇所の寸法を正確に測っていますが、それがこの西院邦恒堂の阿弥陀如来像です。当時からこの仏像は評判だったそうで、後世、これをもって定朝様の完成とされる傑作です。しかし、この様式の仏像の全国的波及に役だったのは平等院像であるとは言いきれません。平等院は藤原頼通の私的な別荘であったため、貴族といえども容易にこの仏像を見ることはできなかったのです。定朝様の展開に寄与したのは京都の西院邦恒堂(藤原邦恒の西院領にあった別荘。現在の京都市街の西端付近か)にあった定朝作阿弥陀如来であったと思われます。この仏像は定朝が平等院像造立後まもなく作った像で、史料中に見られる定朝の最後の造仏です。この仏像は当時では平等院像をしのぐ評判で、「天下以是為仏本様」「尊容如満月」「相好円満」とこの仏像が定朝の完成された様式を示していたことをあらわしています。

うまい棒で円空さん?

仏像彫刻のすゝめ