円空仏と仏師

円空仏と仏師

東京国立博物館140周年 特別展

展示されている円空仏(1)

展示されている円空仏(2)

円空と長間薬師寺

円空と高賀神社

円空仏と仏師

円空と千光寺

円空と栃尾観音堂

仏師とは

仏師の歴史(1)

仏師の歴史(2)

円空仏と仏師

展示されている円空仏(1)

円空は江戸時代、諸国を遊行し、その生涯に12万体もの仏像を彫ったと言われる謎に包まれた遊行僧です。

飛騨の円空─千光寺とその周辺の足跡─」で展示されている円空の仏像について

円空は江戸時代、諸国を遊行し、その生涯に12万体もの仏像を彫ったと言われる謎に包まれた遊行僧です。彼の彫った仏像は「円空仏」と呼ばれ、独創的で力強くそれでいて素朴な美しさに満ちていて、仏像としてはもちろんのこと芸術としても大変注目されています。「飛騨の円空─千光寺とその周辺の足跡─」が東京国立博物館で始まっています。ここでは「飛騨の円空-千光寺とその周辺の足跡」展で展示されている円空仏についてお話します。

展示されている円空仏のご紹介

円空仏「月光菩薩立像」
円空が上野国(群馬県)内で布教・彫像をした延宝9年(1681)年の作とみられ、彼が49歳の年で、その技法は最も力強く、練達した時期でした。松材の一本彫りで、丸木をそのまま彫像していること、背面まで大きな面で造形していること、やや前かがみにふっくりと立っていることが注目されます。高さ29.8センチメートル、両手とも衣の中にあって、像容は明らかではありません。背面に「右第七」と読める墨書があり、薬師如来が脇侍として月光・日光両菩薩を、また12神将を眷属として並立させる場合、右から第7番目は月光菩薩となるので、この像は月光菩薩とみて良いでしょう。所蔵者の成満院の海野家は、代々聖護院系の修験者でした。同院の不動堂には、不動明王・毘沙門天・庚申像が安置されており、近年まで密教修法が行われていました。この辺ではこのお堂を「御子守様」と呼んで親しまれています。
円空仏「地蔵菩薩立像」
この仏像は、明治8年(1875)11月開拓使寺社係の通達により、神仏の合祀が禁止となり仏像・仏具が取り除かれ、その折立ち会った、若林忠次郎の仏間に移されました。仏像は、総高11.1センチメートル、像高7.3センチメートル、台座高3.3センチメートル、像奥行2.6センチメートル、台座奥行2.8センチメートル、像幅5.1センチメートル、台座幅2.0センチメートルの大きさです。若林が函館に去り興村茂八に移され、興村もまた所持して引き揚げ大正元年(1912)に死亡、息子吉造が所持することとなりました。同3年(1914)3月、禅林寺開創住職建入教山、山崎金助らと図り、吉造に懇願、当寺に奉安し現在に至っています。ちなみに円空は寛永9年(1962)生まれ元禄8年(1695)没の63歳説が有力です。
円空仏「護法神立像」
1本の丸太の木材を半分にし、その半分を割って彫られた円空独特の「護法神立像」。同じタイプの像が飯山寺にあり、こちらは「金剛神立像」と呼ばれ、四体を同じ木材から断ち割って造ったという伝承が寺に残っています。怒りの表情を持ち、丸顔と細面で分けられ、二体とも2mを超える大きさ。大きい造りにしては荒削りでシンプル。円空はこの2体を1日で造るほどの短時間で仕上げたのでしょう。この木訥なところこそ円空ならではの像といえます。
円空仏「仏難陀龍王像」
跋難陀龍王は、海や水をつかさどることから航海の守護神や雨乞いの本尊とされる八大竜王のひとつです。髻頂より足元まで、両袖口を含んでカヤの一材で彫り出し、内刳(うちぐ)りは施していません。この仏像は、丈高の大きな宝髻(ほうけい)を結って冠を着し、裳(も)の上から広袖の衣をまとってがい襠衣(とうい)を着する天部像です。白土の残存するところから、当初は彩色像であったと思われます。丈高の大きな髻(もとどり)、幅広の冠、深い面奥の頭部に大きく明確に刻み出された各部、ゆったりと構える堂々とした体?(たいく)と、袖部や体前に鋭く的確に彫出された翻波式衣文には、9世紀の一木彫成像の特色が存分にあらわれています。襟などは手が切れるかと思われるほど鋭く、全体に神経の行き届いた優品です。
仏円空仏「仏八大龍王像」
今回の展覧会には龍を象ったお像も何点か見られます。龍は水の神様の化身です。日照り続きで作物の生育が…何て困った時に円空にこの「八大龍王像」を彫ってもらったのでしょう。円空は好き勝手自由気ままに山に入り仏像を彫っていたわけではありません。その土地土地の人々のニーズにあった仏をこしらえました。

その他展示されている円空仏

工芸の最高峰

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円空の仏像について

鉈で断ち割った丸太から、鑿跡も荒々しく彫り出された仏。2メートルを超える「立木」サイズのものもあれば、古い建築材の木っ端をリサイクルした小さなものもあります。手に結ぶ印や衣文、持物など、仏像は本来、「儀軌」と呼ばれる厳密なフォーマットが定められていますが、円空の彫る像はそうした約束事にとらわれることはありません。

円空の出生と得度

円空の出生などについては謎が多いものの、寛永9年(1632)美濃国郡上郡(ぐじょうぐん)の南部、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)山麓(美並村)で木地師の子として生まれたと推定されています。少年時代から山野を歩きまわると共に星宮神社の別当寺である粥川寺に出入りし、雑役のかたわら経文や手習いを教えられ、その間に周辺の山々や伊吹山・白山などに登り、山伏修験との交流があったと考えられています。そして修験道への理解を深め、木喰戒を受け、その結果全国各地の霊山をめぐって験力をたかめ、庶民救済という誓願を実現するためには得度が必要との考えに達し、寛文3年(32歳)粥川寺において得度したものと考えられます。

円空仏の魅力

何も語ることのない円空仏。でも、私たちは円空仏に円空上人の言葉を確かに聴くのです。素朴な鉈さばきが生んだ円空仏の魅力。その顔に浮かぶ不思議な微笑みは、何かを語りかけているかのようです。円空上人が円空仏を通して今の世界に話しかけたかったことがあるように思えてならないのです。

仏教と仏像

飛鳥時代に大陸からこの国へ仏教がもたらされたとき、そこには光り輝く金銅製の像が伴われていました。教えがゆっくりと広がり、浸透していく過程で、仏像の素材は木へと変わっていきます。仏教以前からこの列島に住まう人々と共にあった深く豊かな山、そして聳え立つ巨樹がまとう聖性が、新しい信仰の形を刻む対象として、ごく自然に木を選ばせたのでしょう。円空の仏が印象的なのは、そこに霊なるものを感じながら彫っていた始まりの時代の仏師たちと同じ、木という素材への畏敬の念、そして木の木らしさを最大限生かそうという情熱が見事に結実しているからです。

円空の素晴らしさ

鎌倉時代に隆盛した慶派以降、仏像彫刻は再び大きな発展を迎えることなく沈滞していきました。しかし円空はその類を絶したオリジナリティによって、近世以降の仏像彫刻の流れの中にただひとり屹立しています。これは円空がいわゆる仏師とはいわず、いかに素晴らしい僧侶であったかを伺わせる事実では無いでしょうか。

うまい棒で円空さん?

仏像彫刻のすゝめ